これからの創造のためのプラットフォーム

2014.06.21
国家とインターネット

和田伸一郎(中部大学准教授)

ご紹介いただいた和田です。これまでIAMASのような場でお話しをする機会がなかったんですけど、今日はぼくが考えてきたことを簡単に紹介させていただきたいと思います。『国家とインターネット』(講談社、2013年)という本の内容が中心になります。

 

冷戦後の軍事技術の民生化の波

まずこのへんは皆さんご存知だと思いますが、1980年代後半あるいは90年代前半に、それまで米ソの対立、共産主義対資本主義という対立があったんですけど、そこで資本主義陣営が勝利し、冷戦が終わった。アメリカと旧ソ連というのは軍拡競争というのをやっていたので、互いが核ミサイルをどんどん作り出して、いつ第三次世界大戦が起きないとも限らないような、そういう妄想的なシナリオをアメリカが中心に進めて、その頂点の一つがNASAにより月面着陸までいったというのが1969年です。それには、その直前にソ連が人工衛星の打ち上げを成功させたことに対して、アメリカがすごく慌てて1950年代後半にNASAを作ったという経緯があるんですけど、同じ年にARPAという国家機関ができて、そこで「ARPAネット」という今のインターネットのベースになるものが開発された。それは、ソ連から核ミサイルが飛んできたときに察知して撃墜するという国家防衛のネットワークとして開発されたんですが、冷戦が終わってしまってその技術は不要になった。

しかし、すごい国家予算が投入されてきたので、それを無駄にしないように、1990年代にARPAネットを民間に開放して、アメリカがITをリードするという国家戦略の一つとしてスーパーハイウェイ構想というものを、当時のアル・ゴア副大統領が打ち出して、そこにマイクロソフトがのって、Windows 95というのが1995年に世界的に普及するわけです。ARPAネットがインターネットとして民生化されて、民間企業が利用できるようになって、それが世界中に広がるわけですけど、民生化されたのは国防ネットワークとしてのインターネットだけじゃなくて、他の不要になった様々な技術も民生化された。例えば軍が使うフライトシミュレーターという、戦闘機の操縦をゲームみたいな感じでシミュレーションする技術が外に出るようになった。1990年代にメディア・アートというものが活性化した背景にも、こういう技術が民間に流れたということがあったと思います。日本で『InterCommunication』という雑誌が1992年に創刊されたりとか(これに先だって1985年に日本電信電話公社がNTTに民営化されたことも重要です)、IAMAS設立(1996年)もその流れであると思うんですが、ZKM(カールスルーエ・アート・アンド・メディア・センター)も1997年に創立されるということで、アート市場にそういう技術がどんどん流れた。そういう技術は非常に高額でひとつ何百万とかするようなもので、ごく一部のアーティストしか使えないということがあったと思います。メディア・アートの背景にはそういう技術の民生化があったということです。似たようなことはもちろんそれ以前にもあって、メディア・アートというのは1960年代にナム・ジュン・パイクが創始したということになっていますけど、それはテレビが普及した時期です。テレビというのも、そもそも技術的には第二次世界大戦のときに開発されたレーダー技術が元になっている。実際1950年代に世界的にテレビが普及するわけですが、それはレーダー技術という軍事技術が民生化されたということです。

 

ネット監視とSNSの隆盛

そして冷戦後、アメリカが超大国となって一極支配になるかと思いきや、中国が台頭してきたり、あるいは民族紛争がアフリカとか東ヨーロッパで起こって非常に不安定化する中で、イラクとか北朝鮮、あるいはブッシュの言い方を使えば「ならず者国家」、あるいはアフガニスタンみたいなタリバン政権、つまりアルカーイダのような国際テロ組織に乗っとられた国家というものが出てきて、そういうものをアメリカが世界の警察として押さえ込むということで、軍事介入をおこなった。でもそれが失敗し続けていて、それで国際世論が厳しくなってきてもう軍事介入できない。そこで、そういうハードな介入ではなくて、ソフトなネット上での通信傍受とか監視というかたちで、国際情勢に対してアメリカが優位に立つという戦略の転換が、特にオバマ政権で起こる。もともと軍事技術だったインターネットをさらに軍事的に使おうという流れがそういうところからも出てきたということです。その流れでシリコンバレーと密接な関係をアメリカ政府は持ったということでしょう。ロイターの記事に「古くからシリコンバレーとアメリカ政府は協力し合っていた」という指摘があります。

エドワード・スノーデンというNSA(アメリカ国家安全保障局)の派遣社員が内部告発をして、国家機密にあたるような大量の文書を入手して、それをガーディアンの記者に渡したのがどんどん記事にされています。去年の6月6日の記事一面ですが、かなり衝撃的なスクープでした。アメリカが秘密裏に世界中のユーザーのプライベートデータを集めていたと。Microsoft、Yahoo!、Google、Apple、Facebook、Skype、YouTubeなどから世界中の人びとを監視していたということが明らかになった。なぜアメリカがそこまで通信傍受とか監視ができるようになったかというと、9.11のテロを許してしまったからです。それをNSAとかCIAが未然に防止できなかったということで、その機能を強化するために愛国者法という法律ができた。それまでは国が一般市民を盗聴するのは禁止だったんですけど、テロ以降は、司法、裁判所の許可なしに盗聴してもいいという権限がNSAに与えられた。だからFacebookなんかが個人情報を集めてそこから広告収入を得ることができるようになったのではないか。先の法的な規制緩和がなければFacebookみたいなサービスは実現しなかったと思います。

 

新自由主義経済における生産・市場・国家の関係性

「創造」ということがテーマですので、これを、生産、市場、国家、社会という四つのところから考えていこうと思います。フェリックス・ガタリという哲学者・精神分析医の理論で、資本主義社会というのは生産、市場、国家の優先順位で定義できるというものがあります。生産を最も優先して市場をその後にして、国家がいちばん後回しというタイプの資本主義というのが、今ぼくらが置かれている新自由主義経済ですね。ガタリは、生産、市場、国家の組み合わせを六つ考えて、それぞれの資本主義の特徴を考えているのですが、ここではとりあえず生産を最優先し、次に、市場、国家は後回し、という新自由主義経済のモデルに基づいて考えてみたいと思います。

それぞれ、生産、市場、国家というのは同じ方向を向いていない。それぞれが自らのロジックに従って向上しようとしているわけです。だから方向がばらばらになっているんですが、しかし交差するところがある、そこに社会が形成されるとぼくは考えています。何らかの組み合わせで生産、市場、国家が合わせられたところに社会というものが形成される。だからどの線がいちばん優先されるかということで社会も変わってくるということです。

中国とか旧ソ連の社会主義なんかは国家の力がいちばん強くて市場が後回しということになりますが、新自由主義経済においては生産がいちばん重視されて国家がいちばん後回しにされるということです。国家を後回しにするというのは、例えば「小さな政府」という言い方をするんですが、国家の負担をどんどん減らして、民営化がどんどん行われるようになる。さらに今、国家の役割をどんどん減らして、今や福祉にももう国がお金を出さない、介護とかも家庭でしろというようなひどい世の中になっています。介護という営みも、国とか病院がやるんじゃなくて、自分らでやりなさいということです。だから市民、国民、全員がいろんな場面で働きなさい、社会全体で生産しなさいというのが今の新自由主義経済です。その無償の労働から企業が利益を得ている。つまり一日の時間の中でもはや労働と非労働の区別ができない。ということはFacebookを毎日頻繁に更新することも労働であり、この労働からFacebookは利益を得ているのです。

 

社会は生産・市場・国家の接合面に形成される

ここで創造的な生産として上に伸びてくる線と、他の線との関係というのを考えてみたい。創造的な生産というのは、それ自体において、市場にも、国家にも、社会にも関心を持たない。例えば、創造的生産の担い手であるハッカーというのは、報酬をもらうことに関心を持たない。Linuxなんかの場合は、リーナス・トーヴァルスという人がOSを完成させるわけですが、仕事の合間に趣味みたいな感じでやっていた。いろんな人とプロジェクトでつながって、OSができたということです。スポンサー企業が付くと、お金を出してくれるけども自由を奪われるので、そういうことをハッカーは非常に嫌がるということです。あるいはハッカーというのは社会の向上にも関心がない。Linuxというのは今では使いやすくなりましたけども、本当に一部のコアなプログラマでなければ分かりにくい、非常に不親切なOSだったんです。不親切というのは、市場にも関心を持たないし、社会で使ってもらいたいという欲求も持たない、自分たちハッカー集団のあいだで使っていればそれでいいということですね。

創造的過ぎると大衆社会には馴染まないということがあると思うんですが、例えば最初期のブラウザに「Mosaic」というのがあったんですけど、それはインターネットを設計した人、あるいはWWWを設計したティム・バーナーズ=リーという人からの評価は低かった。というのは、Mosaicは誰でも使えるように設計されて、それで人気が出て爆発的に普及したんですけども、本当はバーナーズ=リーはもっと複雑なことができるようなブラウザを作って欲しかったんです。人気が出たのは結局そういうマニュアルや説明書を読まなくても誰でも分かるようなブラウザだった、というのがあります。

先程の三つの線と、下のほうの社会という図がありましたけども、なぜ社会が下のほうかというと、生産とか市場とか国家というのは自らのロジックで、自らの目標に向かって進んでいるわけですが、やっぱりそれらがどこかで妥協したところに社会というのは形成されるんですね。生産に関しては創造的過ぎるとそこに社会はできないし、国家が目指しているような外交とか軍事というところには社会ができないわけですし、完全に自由市場という弱肉強食の、お互いが潰し合うようなそういう市場経済のところには幸せな社会はできないわけですね。実際はそういう現状になっているとは思うんですけど、国がある程度社会に対しても負担したり、市場的には市場競争をちょっと緩やかにしたところに社会ができるということです。

 

サービスの利便性とケアレス・コンピューティング

すでにウィキリークスのジュリアン・アサンジという人が以前から「Facebookというのは最悪のスパイ・ツールだ」ということを言っていたんですけど、それは裏の動きを知っていたんでそういうことが言えたんだと思うんですね。スノーデンの暴露以降は、自分のデータも見られているかもしれないという不安を感じる人も出てきたかもしれません。逆に一般ユーザー、学生さんなんかはあまり自分とは無関係だと思うと思うんですが、デリケートなデータを持っている人というのは、当然そういうアメリカの通信傍受に対して敏感になるわけですね。実際それでアメリカの弁護士集団が開設していた相談窓口のサイトが、ここまで監視されているということが分かった以上依頼者のプライバシー保護を保証できないということでサービスを停止したということがありました。

かと言って、一般市民からすると、別に見られても困るような情報は出していない、だからいくらでも使うんだ、ということもある。センシティブなデータを持っている一部のユーザーだけがそういうセキュリティに配慮するということが起きて、一般大衆のレベルではそんなに抑制は働かないかもしれない。ハッカーとして有名なリチャード・ストールマンという人が、2000年の初頭くらいに「クラウド・コンピューティングというのはケアレス・コンピューティングだ」ということを言いました。データがずっとクラウド上にあって、そのデータに自分自身アクセスできないし、自分自身それがどういうふうに利用されているのか分からないという状態のままコンピューティングしているというのは「ケアレス」(注意を欠いている)ということで批判的に指摘したわけです。FacebookとかGoogleなんかは、個人情報を出してくれるとそれを広告価値に変換してスポンサー企業に情報を売っているわけですから、企業からするとユーザーがケアレスでいてくれないと儲けが出ない。だから企業はユーザーにケアレスであることを望んでいる。

これに対し、最近Google検索が使われなくなってきているという傾向が出てきている。というのはTwitterとか使っていると、わざわざ検索して自分から情報を探しに行かなくても、フォローしているツイートに貼り付けられているURLから情報がどんどん向こうからやってくるわけなんで、ますます自分からGoogleで検索するということが減ってきているということが調査で明らかになっている。それでGoogleは焦っているんです。検索の利用率が下がると検索の精度も下がるし、ユーザーが減るということは広告価値がなくなるわけですから。そこで企業レベルとしてはケアレスな利用をしてほしいとしつつ、Gmailがきちんと暗号化するプログラムを組み込みますよということで、ブランド力を下げない。企業としてサービスの信用度を維持するためにはこういう取り組みも必要だということです。

 

個人情報とビッグデータ

国家という側面から考えると、今ビッグデータということが言われていて、クラウドとかサーバに日々蓄積されていくデータが桁違いに増えていて、その90%が意味のないデータなんですけど、意味のないデータを組み合わせることで広告価値が出る。例えばある商品が売れたというだけだったらそれ自体データの価値がないわけですけど、どこどこの地域で売れたという、その二つのデータが同じ文脈につなげられると、この地域にこれを販売すれば儲かるんだということで、企業にとっては利益になる。だからビッグデータを分析して企業利益に転換できるようなデータにすることを専門にするデータサイエンティストと言われるような職種が求められると一般には言われています。しかし、これはちょっと怪しい職業かも知れません。企業にとって利益のあるようなデータを見出せというふうに企業側からは言われるわけですが、それをやるにはやっぱりユーザー規約を違反したりとか、そういう方向に必ず行くと思うんです。Facebookなんかも似たようなことがあると思うんですが、そういうことに関しては国が適切に法的な整備をして介入する必要がある。EUではGoogleが訴えられて賠償金を請求されたということです。EUはプライバシー保護、アメリカはそうではない、という中で、今まさに日本でパーソナル・データに関する検討会が重ねられていて、話し合いがされているんですけど、ヨーロッパに近いような法整備をするのか、あるいはアメリカに近いような法整備をするのかというところでかなり議論があるみたいです。そういう法律レベルのことも、アーキテクチャを設計する上で必要な知識になってくるかもしれない。

先程政府がどんどん小さくなっていっているという話をしましたけども、政府は政府で、国勢調査だけじゃなくて、各省庁がものすごいいっぱいデータを持っているわけですが、それはネットではごく一部しか公開されていない、あるいはしかるべきところにいかないとそのデータが見れないという状況が続いていたんですけど、それが今はデータが公開され、市民が一つの文脈では無関係に見えるようなデータ同士を線としてつないでいって、例えば病気の予防につながるような発見をするとか、交通事故を減らすとか、そういうことが可能になる。警察庁があまり公開していないような事故に関するデータがオープンにされ、事故の再発防止を一般ユーザーが公開されたデータを見て分析して、ネットで公開するという取り組みがされています(「Open DATA」)。

 

統治ツールとしてのSNS

それではなぜ国家、市場、生産、社会という四つの要素からFacebookのようなサービスとかを考えないといけないのかと言うと、ぼくらユーザー目線というのは社会の中でしか、自分が使った経験でしか見ることができない。そうすると、その裏側で何が起こっているかということに対してあまり関心を向けないんですけど、国家とか市場とか生産というところからもう一度SNSを見直すと、いろいろ裏側の部分が見えてくるということで、こういう道具立てを考えたわけです。

9.11以後のテロ対策として規制緩和がどんどん進んでしまった。ぼくはFacebookを使ってないんですけど、FriendCSVというサービスを利用したことがある人いますか?CSV形式で、要するにエクセルでデータが読めるということなんですけど、このアプリを使うと、Facebookに登録されているたくさんの情報が簡単に吸い上げられて、エクセルで表示できるようになる。これはヨーロッパだと明らかに法に抵触すると思います。ぼくらは便利だからFacebookを使って、昔の友達とかとつながったりとか友達の友達とつながったりとか、書き込んだりしているわけですが、NSA問題で考えると、Facebookをアメリカが支援していたとすれば、国家の支配、統治のための労働を一般ユーザーがさせられているというふうに見えないこともないわけです。浮気がバレるとか、そういう矮小化された問題でしかあまりニュースにならないんですが、事態はもっと深刻だということです。先ほど諜報機関の民営化ということを言いましたけど、ウィキリークスのジュリアン・アサンジなどは、「国家機関・スパイ機関と民間企業のソーシャルなサービスは実は境界線がほとんどない、一体になっているみたいなところがある」という指摘を繰り返ししています。

 

「歴史の力」としての芸術

市場と芸術ということでは、『印象派はこうして世界を征服した』(フィリップ・フック著、中山ゆかり訳/白水社/2009年)という非常に面白い本が出ているんですが、印象派がなぜ未だにすごい人気があるのかというと、印象派が始めてアートマーケットというのを作ったからだ、という説です。印象派以前の画家というのは、お金持ちの貴族らが資金提供してくれて、それで働かなくても絵を描いていられるということがあったんだけど、印象派の時代、19世紀あたりになると資本主義が発達してきて、ブルジョワという資本家、これは貴族ではない一般市民がのし上がって大金持ちになるわけですけど、そういう人が自分の社会的ステータスを高めるためにアートコレクターになった。そういうアートマーケットというのが印象派絵画の流通において作られたから、印象派が有名になったということです。印象派以前の画家というのは貴族のパトロンに支えられた職人だとすれば、印象派以後の画家というのは、意図する、しないに関わらず市場に支えられて存在するアーティストということになる。興味深いことに、印象派というのはフランスの画家たちから成るわけですけど、人気がなぜかフランスからではなくてアメリカから始まったというのはそのへんの事情を反映したものだった。あるいは第二次世界大戦のナチスドイツがフランスを占領したりする中で、美術館の絵画を押収してしまうんですけど、しかしヒトラーですらその経済的な価値を認めざるを得ないということで、焼いたり破棄したりせずに、置いておいたということです。というふうになってくると、市場と芸術という関係は、少なくともここの関係性においては、作品概念とか、ロマン主義的な「天才」概念とか、そういう美学概念があまり機能しないというか、市場の論理で価値が決まっているというところです。

また、国家と芸術ということでいえば、イギリスのインデペンデントという新聞に1995年に掲載された記事なんですけども、モダン・アートが実はCIAの武器だったというスキャンダラスな記事がありました。どういうことかと言うと、第二次世界大戦でナチスにパリが占領されてしまって、画家にはユダヤ人が多かったので、パリからアメリカに亡命するわけです。それと同時に芸術の中心がパリからニューヨークに移るわけです。それで、戦後アメリカ、連合軍が勝利して冷戦が始まって、アメリカは軍事力を高めるとか経済力を高めるとかいろいろ国家戦略を打ち出すわけですけど、そのときに文化とか芸術もアメリカのものがいちばん優れているということを世界中に知らしめようということが国策としても行われた。戦後、抽象表現主義という画家のグループができて、デ・クーニングとかマーク・ロスコとかジャクソン・ポロックとか、その辺の画家がそれ以後世界的に有名になって評価されていくわけですが、それを理論的に支えたのがクレメント・グリーンバーグというアメリカの批評家だったんです。それらの画家や批評家も含めて、実はCIAが資金的に支援していたということがその記事に書かれています。当時、反共産主義の風潮がすごくアメリカで強くなって、共産主義的な左翼思想を持った人たちがどんどん逮捕されたりとか、映画監督でも何人かが映画が撮れなくなりました。その中で、特に抽象表現主義なんかのアバンギャルドはどちらかというと「左」にも関わらずCIAが資金援助していたというのは、創造性とか知的自由というのがこれだけアメリカでは認められているという国家的威信を世界に見せつけるためだったということです。

今のは絵画の例でしたけど、映画にも似たようなことが言えるわけです。映画というのはより大衆が接することができるある種の芸術だと思うんですが、ゴダールとイシャグプールという批評家の対談の中で出てくる言葉で、「映画というのは芸術の問題をはるかに超える力を持っていて、それは歴史の力」だと。というのは、アメリカによる世界征服というのは単に軍事的、技術的、経済的優位に立つだけじゃなくて、ハリウッドが生産した多くの映画がアメリカという国の優位性を映画というコンテンツを通して世界中に広げたということで、映画の力というのは歴史を作ったというところがあるというのです。

 

創造のよろこび

創造的生産、国家、社会、市場ということで考えてきましたが、創造行為を国家が必ず必要としなければならない局面というのがあって、それが例えば旧ソ連に対してアメリカの威信を世界中に広めるために映画だったり絵画という創造行為の成果を利用しないといけないというものです。しかし逆に創造行為は国家を必ずしも必要としないということはあると思います。20世紀後半の最大の哲学者であるジル・ドゥルーズというフランスの哲学者に、「創造行為とは何か」というタイトルの講演があるんですが、そこでドゥルーズは「創造」という言葉をしばしば使います。哲学というのはコンセプト(概念)を創造するのが役目だと、そういう言い方をしばしばするんですが、20世紀後半の最大の哲学者がなぜ繰り返し「創造」という言葉を使ったかという意味を真剣に考えてみた方がいいのではないかと思っているんです。

それは裏返せば、20世紀という時代には、創造という行為があまりにも限られた特定の人たちにしか享受できないものだったんじゃないか?例えばテレビ番組を作るにはテレビ局、あるいは制作会社に入らないとできないわけで、相当な設備というものが必要になるわけですね。それは一部の寡占企業というか、テレビ局とか新聞社とかその背後にいた国家もそうだと思うんですが、自分たちで事業を独占したいということがあったと思うんです。テレビ局というのは新規参入できない企業体です。だから一部の大企業が独占してコンテンツを大衆に配布するという時代が20世紀という時代で、そういう意味では創造行為が摘まれていた時代と言ってもいいのかも知れない、ということですね。とは言えデジタル化された21世紀ではどこまで創造行為が展開されていくのかということは、ぼくにも分からないんですけど。

創造行為というのはそれ自身においてよろこびであって、ハッカーの例でも言いましたけど、利益を得たいからやっているわけではない。それ自身が楽しいし、ある種快楽ということがあるからするわけですけど、そういうものを国家が武器としての絵画というかたちで利益を引き出したりとか、あるいは企業が市場価値を引き出したりとかというかたちで、創造行為に便乗してくるわけですけど、そもそも創造行為を行う人は、国家の役に立つために、あるいは企業の役に立つために創造行為をやっているわけじゃない。それは別に一般社会を良くしていこうとか、そういうことも考えずひたすら追求していくものだと思うわけです。中には実際企業に買収されるために面白いプログラムを書くとか、ハッキングをするという人もいるわけですが、本物のハッカーというか、リチャード・ストールマンのような人はそういうことを非常に嫌っていて、とにかく国家にも企業にも絶対に利用されないフリーソフトウェア運動ということをやっているんです。

 

「役に立たないアート」というフィクションの拒否

創造行為が国家のためにならないといけない、あるいは企業のために、社会のためにならないといけないというフィクションが、あると思います。だから、何の役にも立たないプログラムを書いてどうするの?とか、何か役に立たないと駄目、みたいな言い方がされるわけですけど、そうじゃないと思うんですね。そういうフィクションを否定して、創造行為自体の喜びを追求する、それでいいんじゃないかなと思います。まあ一つの不可能な理念、理想として、こういう言い方をあえてしてみたいというわけです。現実的には企業に買収されないでプログラムを書いても食っていけないわけですから、だから現実はこうで、理想としてはこういうものがあるよ、ということです。誰かの利益になるためにやっているというわけではなくても、必ず国家とか市場や社会が、創造行為がもたらすものを必要とする局面というのがあるわけですね。だから役に立つということを目標にしなくても、どこかで必要とされることがあるということは知っておいたほうがいいかなということです。これで終わりたいと思います。ご清聴ありがとうございました。