2015年5月29日(金)に岐阜県大垣市赤坂にある、金生山明星輪寺(きんしょうざん みょうじょうりんじ)の15代目住職、冨田精運さんを招いてお話を伺いました。レクチャー前半では、明星輪寺のもつ魅力や文化的資産をご紹介いただきました。明星輪寺のご本尊である「虚空蔵(こくぞう)さん」が祀られている「岩屋堂」、年初に行われる「初こくぞう」という火渡りの行事。境内の岩石群とそこから市街を見下ろす眺望や珍しい陸貝やヒメボタルのお話。さらに江戸時代から受け継がれている「算額」など、福徳・知恵・技芸の守り尊として、こくぞうさんがいかにこの地に根付き、慕われているかというお話をしていただきました。
後半では、役行者(えんのぎょうじゃ)によって7世紀に創立されたと言われるこのお寺の歴史上、地政学的な重要性についてお話を伺いました。また、垂井には金山彦命を祀る南宮大社があることからも、金生山は名前の由来の通り鉄(赤鉄鉱)を産出していたのではないか?冨田住職はそれを検証するための研究会を立ち上げ、金生山の赤鉄鉱を使って、古代と同じたたら造りによってケラを造る実験もされています。さらに、もともとは「無限にいっさいのものを蔵する」という「虚空蔵(こくぞう)」は、実は宇宙や地下資源と深く関係しているのではないかというお話も金生山のもうひとつの資源である「化石」と合わせて考えてみると、とても興味深く感じられました。
現在、金生山では石灰の掘削が進み山の形も昔とはずいぶん変わってしまったようですが、そのような資源と社会の関係性がつねに変化してきたように、21世紀において私たちが何を「資源」と見なし、残していくのかという課題はますます重要になってきているように思われます。明星輪寺の様々な行事、ヒメボタルと陸貝の生態系、算額などに私たちがこれまでになく興味を惹かれるとき、そこにはなんらかの変化の兆しが表れているではないでしょうか。
そこで加藤典洋著の『人類が永遠に続くのではないとしたら』(新潮社、2014年)を参照しながら、「できるけどやらない」という自由や力能のあり方について議論しました。わたしたちはなにかが「できる」ことに過度に価値を与え過ぎてはいないだろうか?「できるけど、やらない」ということにもっと積極的な意味や価値を見出せるのではないか?それに関連して冨田住職が言われた言葉が印象に残りました。
『潜在自然植生』というのがあるんです。すでにそこに棲息しているものをそれなりに大事にしていけば、とくに水をやったり、餌をやったりしなくていいんです。むかし境内地に山茶花(さざんか)の株を植えたことがあるんですが、全部ダメになってしまったんです。それよりも、すでにそこにあるもの、春には一人静(ひとりしずか)、秋には彼岸花・秋明菊・南天とか、そういうのは何にもやんなくても増えてくれるんですね。ホタルも餌をわざわざ与えるようなことはしません、陸貝がいるんですから。
どこの観光地でも、人を寄せるためにきれいな庭をつくろうとしてしまうんです。でもそういうことは長くは続きません。私のところの岩巣公園は『公園』という名前はついていますけど、ブランコも滑り台もない。でもそういう公園があってもいいんじゃないかと思ってるんです。
冨田住職は金生山の石灰が掘り尽くされてしまったとき、山をどのように再利用していけるのかを心配されていましたが、ご自身としては地域の方々や次世代のために心癒す境内地を後々まで残すべく日々努力されていくというお話をしていただきました。