これからの創造のためのプラットフォーム

2017.12.26
TALK WITH VINCENT MOON

ヴィンセント・ムーン(映画作家)

井上博斗(郡上八幡音楽祭プロデューサー)

2017年12月26日に岐阜市のカフェnakaniwaにおいて、世界を旅しながら膨大な映像を発信するヴィンセント・ムーン、郡上八幡音楽祭をプロデュースする井上博斗さんをゲストに「音楽という体験をいま、ここに開くこと」というテーマのもとでトークセッションが行われました。ヴィンセント本人からの活動紹介からはじまり、様々な議論につながったトークのエッセンスを紹介します。

 

 

登壇者:

ヴィンセント・ムーン(映画作家)

井上博斗(郡上八幡音楽祭プロデューサー)

青山太郎(映像学者、名古屋文理大学准教授)

前林明次(サウンド・アート、IAMAS教員)

通訳:

ペルティエ・ジャン=マルク(メディア・アート、名古屋造形大学准教授)

 

不可視のものを求めて

前林 まずはヴィンセントさんの活動のプレゼンテーションをお願いいたします。

 

ムーン 今日は、複数の文化についてのアイディアを共有させていただきたいと思っています。はじめに、自分がどこから来たのかを説明しますと12、3年前から音楽についての映画を作成しています。主に音楽を演奏している音楽家の動画を撮影して作品を作っています。制作活動のスターティングポイントは、約15年前から普及してきたデジタルの文化です。最初にウェブサイトをご覧いただきたいのですが、制作活動をはじめてから、すべての作品をウェブで公開して、自由に使っていただけるようにしています。いま、動画作品が700本以上アーカイヴされています。

(映像の紹介 https://www.vincentmoon.com/

元々の専門は写真で白黒写真の影響が大きく、自分の美学センスに影響を与えたのは、1人名前を挙げるならば森山大道です。最初は「動き」を写真で撮ることに集中していました。世界を旅して、音楽に強い関心を持ちはじめました。もっとも写真では、自分の興味、関心があった動きがなかなか撮れなくて不満がありました。20代のときにいろいろなところを旅して、たとえばシベリア鉄道に乗って旅をしてドキュメンテーションを撮っていましたが、非常に詩的な観点からでした。この頃の写真をもう1度見てみると、そこに「写っていないもの」に最も関心を持っていたのだと改めて実感します。そしてやはり「闇」ですね。闇のなかになにを見つけられるか。闇の中に潜んでいる神秘性について関心を持っていました。

 

 

旅とデジタル・アーカイブ

若くて、作家としての自分のスタイルを探していて他の写真家の影響から少し自由になろうとしていた。そのときに友達と一緒に音楽の演奏の動画を撮りはじめました。このプロジェクトは「Take Away Shows」という名前で、今考えると、主に路上で撮影された映像をインターネットで簡単に共有できるプラットフォームとしてのパイオニアだったと思います。3、4年の間に、このシリーズでおよそ100本の短編が作られました。最初の頃は主にパリを訪れるミュージシャンにライブの前後に街に出ていただいて、即興で演奏を撮っていたんです。言葉で説明するよりも、実際の動画を見ていただいた方がわかりやすいと思うのでご紹介します。これは、ブエノスアイレスで撮影された映像です。

(映像紹介 https://vimeo.com/12873462

これは初期の即興の実験でしたが、そのころから即興についての実践を始めていました。意識はしていなかったのですが、そこにはなにか意味があると感じ始めていました。作品を作る前に絶対に脚本などは書きません。なぜかというと、今の映像を見るとわかると思いますが、それはもうすでに映像のなかに描かれている。なにかを準備してしまえば、現実にもう1つのレイヤーを乗せてしまうことになります。私はこの方向で続けていきたかったので、旅を繰り返し、どんどん目に見えない世界に惹かれていき、やがて宗教音楽に出会いました。そしてその出会いによって、いままでのことがすべて理解できたんです。「目に見えないもの」の本当の意味です。

 

 

伝統音楽から宗教儀式、そしてトランスシネマへ

ロック、ポップやインディーズの音楽をテーマにしてから、いわゆる伝統音楽のリサーチを始めました。そしてこの研究が宗教音楽に繋がったんです。また、地域文化に密着して制作をするにつれ、何らかの責任を感じ、ミッションがあるように感じてきました。そこで自分の制作が別物になっていきました。もっともっと宇宙的になっていきました。宗教の儀式、つまりこれまでドキュメントされてこなかったもの、尊重されてこなかったものを撮影するとき、責任を感じたのです。こういった宗教儀式を複数、編集したものを今からお見せします。

(映像紹介)

相変わらず、撮った作品はすべてオンラインで見られるようにしていますが、さらに、動画のなかに映っている方々がその動画を自由に使えるようにしています。そして、後ほどディスカッションのなかで説明していきますけれども、「トランスシネマ」というブラジルでの研究は、「HÍBRIDOS」というプロジェクトに繋がりました。これは大きなデータベースで、50以上のブラジルの宗教音楽を集めたものです。記録された儀式に関する動画や資料は、そのすべてがインターネット上で公開されています。動画のなかに記録された音楽は音としても残されていて、75ものアルバムコレクションになっています。1つのアルバムに1つの儀式が記録されています。まだ制作途中ですが、儀式に関わっている人々のインタビューも撮っていて、現時点で60本以上あります。これは映画についての研究でもあります。ここで言っている「トランスシネマ」というのは、映画と他のメディアとの関係です。ウェブ、制作についての約90分のドキュメンタリー、ライブシネマ、マルチスクリーン・インスタレーション、それらすべてが新しい関係を作ろうとしています。最後にこのプロジェクトに関する長編映画の予告編をご覧いただきます。

(映像紹介 https://vimeo.com/241436870

 

前林 ありがとうございました。膨大なコレクションとして発表されている作品を、非常に簡潔にご自身のキャリアとともにまとめていただきました。ではここで、もう1人のゲストを紹介します。井上博斗さんです。実は今回、この岐阜でヴィンセントさんをお呼びするとき、なんとか岐阜らしい、ふさわしい方に会っていただいて話が展開できればと思っていたところに、井上博斗さんの名前が浮かびました。まずはプレゼンテーションの感想をお願いします。

 

井上 岐阜人ではないんですけれども、井上博斗と申します。郡上八幡から来ました。僕は郡上八幡音楽祭というものを2013年からやっているのと、民謡とか、郡上に伝わる歌をどういうふうに伝えたり、シェアしていける場を作っていけるかということを、郡上に移ってから7年続けてきました。今日、映像を見て思ったのが、YouTubeで1人で見るということと、この場で、このような音響のもと、まるで映画のように、しかも集団で見るということが、どんなに違うかということです。ネットに上がっている膨大なアーカイヴを1人で見るというのと、今日のように集団で見るというのが全く違うというのが重要なんだなというのを改めて思いました。

そしてもう1つは、ヴィンセントさんの世界的なキャリア。ずっと世界中を旅して、いろいろなものと出会って、それをウェブに上げ続けるという行為。僕は日本中の祭りはなんとなく見てきたんですけれども、旅をしたかったのではなくて、どこかに根ざして、暮らして行きたかったというのが大学生くらいからあったんです。土地に住みながら、土地の人と関わりながら何かをしたかった。そういう意味では、日本人なんだけれども、根無し草というか。生まれは香川県なんですけれど、日本のなかをふらふらしながら、郡上という土地に出会って、ここで土地の人と、この土地でおそらく最も大事にされていたものをどういうふうにシェアしたり、次の世代に伝えていったり、それをさらに濃密なものに蘇らせたりできるかということにものすごく興味があって、それを続けてきたんですね。それには土取利行と桃山晴衣という2人の郡上八幡を拠点とした音楽家との出会いがあることで、僕の人生が切り開かれていったわけなんです。それはまたのちほどゆっくり話したいと思います。

 

媒介としての映像メディア

前林 それではもう1人の登壇者、青山太郎さんから感想をお願いします。

 

青山 ご紹介いただきました青山です。映像学者ということで、論文を書く作業もしているのですが、僕自身もダンスとか、パフォーマンスのドキュメンタリーを撮ったりすることがあるので、今回、ヴィンセントさんにお会いするのをすごく楽しみにしていました。聞きたいことはいっぱいあるのですが、先ほど「責任」があるということをおっしゃられていました。そこには作家として自分を表現することとは違うものがおそらくあらわれていて、それとどう重なるんだろうなと思っているんです。僕自身、特に東日本大震災が起こったときに作られているドキュメンタリー作品、また、それを作っている人の分析を行ってきたんです。それは被災地に住んでいる人が作っている作品もあるし、あるいは被災地でない、という言い方も難しいのですが、たとえば東京から、あるいは海外から来た作家が作った作品もある。そのなかには、いい作品、いい意味で心が動かされる作品もあれば、これはなにか違うのではないか、という作品もある。その違いはなんだろうということを哲学的な知見から研究したいとずっと思っていたのですが、そういう問題とも通じてくる。つまり、宗教儀礼のなにが一番大事なのか、それがちゃんと映るのかというところが、カメラを持つヴィンセントさんはどうお考えなのかなということをお聞きしたいなと思っています。

 

 

ムーン なにか言いたいことがあるわけではなく、自分が透明になって、目の前にあるものをドキュメンテーションしていきたいです。起こっていることを説明しているわけではないのです。なにかを引き起こしたいとは思ってはいるけれども、それは論理的なものではないです。起こっていることを説明するということは、自分よりももっとできる人がいます。人類学者は学術的に儀式を捉えています。興味があるのは神秘性であって、どうやってそれを壊さずに作品を作れるかということです。最近ずっと気になっていることとして、「直観」があります。理解するのではなく、むしろ理解は抑えて、その代わりに感じることを強くしたいと思っています。基本的に最も感心をもっているのは「霊性、精神性」であって「宗教」ではないです。この「精神性」というものは、よく宗教の衣をまとっていますが、常に流動的で進化していて、止めることができません。そして、説明することもできません。ある意味で、作っている作品は「精神性」のドキュメンテーション、というよりも、実験です。自分が参加している人たちのなかに入って、そのなかの1人になろうとしている。そして、その過程を映像で捉えているのです。これはロシアの南西部のチェチェン地方で撮影したスーフィーの儀式です。

(映像紹介 https://vimeo.com/70748300

自分の作品に対してはちょっとおかしな関係があって、作品が非常に多いのと、記憶力が非常に悪いので、久しぶりに自分の作品をみると、気づいていないところがいっぱいでてくるんですね。こういうふうにみると、当時やろうとしていたことが分かってきた気がしてきました。それは常に、動いているもの、を作ろうとしていたんだと思います。それは作家の目から動いているものだけでなく、観客の目からも常に動いているものです。その現実をどう解釈すればいいでしょう。他の人が言ったことを信じるか、自分が理解しようとするか。たとえば、この映像の最後に、大人たちの真ん中に子どもがいたわけです。みなさんは、真ん中に子どもがいたことの説明を聞きたいのか、それとも自分で想像したいのかということです。

 

 

前林 この映像は、実は今日、観客の方々にも見てもらい議論したかったものなんです。わたしがこれを見て直観的に感じたのは、人間のなかのミツバチ的な側面というか、そのようなスイッチが完全にオンになった状態を見ているんだというものです。神秘的、と作品についておっしゃっていたけれど、それを感じること、さらにそれが1人に起こるのではなく、感染し、うねりとして動いているということです。まさに宗教儀礼とか、集団的なトランスというのは、そういうことと繋がっているんだと思います。そういうものがわたしたちの中にあるということを認めた上で、今日は井上さんの郡上八幡での活動につなげて考えていくことができるんじゃないかと思っています。それでもこの映像について私が聞きたかったのは、ヴィンセントさんが最後にこの少年をどういうふうに見つけて、撮影できたのかということなんですね。それに大変興味がありましたがいかがでしょうか?

 

ムーン 儀式の最後にたまたま真ん中に自分が流れてしまって、そこに子どもがいたわけです。大勢の人々のなかから子どもを見つけたわけではなく、逆にあの子どもが自分を見つけたわけです。この映像を撮ってから、現実に対する意識が多少変わりました。昔に比べて、より魔法を信じるようになりました。この動画でいえば、スーフィーというイスラム教の宗派について説明することはできます。いまの儀式はなんのための儀式で、どうしてこのような儀式になったのかということ、それらを説明することはできるけれども、もっと関心があるのは、人間はどうやって物語を作り出すことができるかということです。それが「精神性」の本来の目的ではないかと感じています。

 

メディアを見抜く目

前林 わたしは感染という言葉を使ったんだけれども、こういったメディアを使った表現、記録や再生というもののなかにも、感染の種があるというか、それはヴィンセントさんのライブシネマに繋がると思うんだけれども、様々なメディアにおいてもそれが作用すると考えられますか。

 

ムーン まさにその通りで、いまやろうとしているのは、ドキュメンテーションの効用です。儀式のなかにあるエネルギー、それに近いものを動画のなかに再現しようとするんです。再現するときには、非常に現代的なツールを使っているけれども、現代的だからといってそこに「精神性」が潜んでいないと断言はできないですよね。コンピュータもカメラも、なんらかのエネルギーで振動しているわけです。やろうとしていることは、現代社会と伝統的な社会に橋を架けることです。いまの社会は融合が加速していて、非常に早く変化していきます。そのなかで、伝統的な社会と現代社会の融合は難しくなっていきます。どうやってこのふたつのバランスがとれるのか。特に、地域密着のローカルな仕事とグローバルな社会をどう繋げていくかが大切です。日本に来て感じていることは、日本人の日本の文化に対する考え方と、私の日本の文化に対する考え方が全然違うということです。フランス人だから、日本の文化や美意識を見ることができるし、あまり絆がないからこそより実験的なことができるんじゃないかと思っているんです。実験することがヨーロッパ人としての使命かなと思っています。

 

前林 いまメディアの問題、バランスの問題と指摘していただきましたが、それは重要な問題です。たとえば、さきほどから言っているわたしたちの中にあるミツバチ的な側面、集団で一体感を感じるということ、それは音楽とか祭りとかでもみられますけれども、郡上八幡であれば郡上踊りかもしれません。それは土地とか時間に埋め込まれた形で毎年展開していく、というあり方をしています。一方で、バランスということで考えると、メディアによってスーフィーの儀礼を個人の部屋のなかで毎日体験することもできてしまうわけで、それはある種の誤作動のようなものと言えるかもしれません。メディアのバランスというのはすごく重要な問題で、そのときに、郡上踊りや、井上さんが毎年開催している郡上八幡音楽祭というのが、ある種のメディアとはいわないにしてもどのように考えられるでしょうか。

 

井上 メディアを見抜く目というのがあると思うんです。膨大なメディアを見抜く目をどこで養うのか?「映像だからナマじゃない、だけどナマのようなものを捉えている」と感じるのか、「映像だからナマじゃない、やっぱり偽物だな」ってみるのかっていう選択眼があると思うんです。僕はメディアを繋ぐようなブリッジを作っていないけれども、また自分は歌手ではないけれど、なぜ自分が歌うようにしたのかというと、土地の人の歌に感動して、かつ自分で歌って、仲間をつくっている。郡上踊りのなかでもさらに古い拝殿踊りという楽器を一切使わずに集団でぐるぐる周りながら踊る古い形の盆踊り、中心にはなにもない、儀礼的には白山の神様を降ろすということをやる。しかも即興で、白山の風景を歌い込んだり、白山の神様を降ろすための様々な歌詞をやっていく。それも旧暦の満月の晩に、明かりのないところでやる。実はこれは70年くらい滅んでいたんです。いまは新暦で、観光化もされているなかで郡上踊りというのが1ヶ月かけて行われています。そこでは土地の人と、かつての形を蘇らせるんだけれども、次の世代の僕たちが歌い込んで、即興で歌い、掛け合う。そこに白山神を降ろすかどうかはわからないなかで、それをやるっていうことでしか得られない体験がある。そのような全員が歌い手であり全員が踊り手であるという、主体としてしか参与できないっていう体験をもって、チェチェンのスーフィーを見たり、アフリカを見たりするということ。それが作為的なものなのか、作為的な設定があるとしても、そこに本物が潜んでいるのか、精神性を持っているかどうかは、こちら側に目がないと見抜けない。なぜ郡上八幡音楽祭で、トルコのスーフィーを呼んだり、マリのミュージシャンを呼んだり、韓国の伝統打楽器集団を呼ぶかっていうと、自分の中にあるものに気づくために、外のスピリチュアリティを帯びている人を入れるんです。同時進行でこの日にしかないお祭り、踊りを共有しながら、1年に1回、「外」というものと交流し続けている。こういう膨大なアーカイヴで見られるというのとは真逆の、年に1回か2回しかない、そこにしかない埋め込まれたものと、マレビトのようにして突然やってくる者との交流を郡上で続けてきている。それが少しずつ芽を出してきている。土地の古老から子どもまで、郡上八幡音楽祭はすごく広い世代の人たちがやってきている。かつ、それはフェスではなくて、1人の音楽家、1つの音楽しかない。けれど、それがいま膨大にあるメディアを見抜く目になるんではないかという希望をもってやっているんです。

 

 

ゆっくりとした流れの中に異質なものを埋め込むこと

前林 井上さんの試みというのはある意味ラディカルでもあるわけですよね。土地とか、人々の関係という、ある種「スロー」な、移り変わりが遅いものがある。そこに異質なものを呼び込む場を作っていく。それはやっぱり時間がかかる作業ですよね?

 

井上 これまで千年、二千年とかかったように、おそらく輪踊りなんかは1万年、縄文時代のアイヌがやっているように、時間をかけて続けられていくもの。僕らは生まれて死んでいくわけですけれども、それそのものはずっと昔からあり、次に伝えられていくものなんですよね。だから僕らは身体を貸すだけ。伝統ってそういうものだと思うんです。流れに時折飛び込んで、流されて、退場していく。もしくは、その一滴になっていくっていうだけ。何十年もやるんですけれど、主体としてみれば。でもそれは流れに入っていくこと。ある見方ではそれは滅んだとか言われるんですよね、この踊りは無くなったとか。僕も、この踊りは無くなったから甦らそうとか言っているんですけど、大きな流れのなかでは、ずっと続いているもの、それに自分の身体を貸すかどうか、自分がそれに参与するかどうかということ。僕はそれを郡上で見つけたということなんですね。それはどこの世界でもあることなんだけれど。そこに入っていくかどうか、自分の身体を差し出すかどうかということなので、歌下手だからとか、俺、踊り音痴だからとか言っている暇なく、参与させられるものでもあるっていうのが、郡上踊りの魅力だったりするんです。

 

場のノリや流れと一体化すること

ーー質問者1 「Take Away Shows」とか様々な映像を見ているのですが、私自身あまり映像が好きではない方でして、映像に酔ってしまうんですね。でも、不思議なことに、ヴィンセントさんは手でカメラを持っていらっしゃると思うんですが、映像酔いをあまりしないんです。それがとても不思議だったんですけれど、私は映像を撮ることがないのでどういう理由かわからない。映像を撮るなかで、ブレによって映像に酔うようにならないというか、そういう方法があるのか、撮っていたらそうなっていただけなのか、そこをおうかがいできたらと思います。

 

ムーン 非常にいい質問ですね。方法があるかどうかはわからないんですけれど、まず映画には3つの重要な要素があって、1つは映像、もう1つは音響、3つ目がもっとも大事で、動きです。映画のなかの動きを作家としてどう考えるかというと、身体を通してそれを捉えるわけです。私が儀式を撮影するときに何をやろうとしているかというと、場のリズムをまず探そうとします。さっきノリの話がありましたけど、それに乗ろうとするわけなんです。場のリズム、ノリに乗って、壊さずに入ろうとします。身体的に、みんなと一緒に動いているわけです。周りの人と動きを合わせて、1つの大きなものになって、みんなと同じように乗るわけです。必然的に動画のなかの動きに合うわけです。それで、もう1つ面白い現象が起こるわけです。1つのグループのなかに入って一緒に踊って撮影するとき、近くに人がいるなかで、私はカメラを持って踊ったりしながら、ものすごく近距離で撮影するわけです。そのとき、儀式が終わった後で、撮影された人からよく「あれ、いましたっけ?」と言われます。人々の真ん中で撮影しているのに気づかれないんです。自分がある種その集合体のなかに完全に融合して、透明化してしまうんです。人に気づかれず、全員が大きなノリになるんです。ただ、本当にそれができているかどうかはわからないです。ちゃんとその場にいたにもかかわらず、見えなかったと言われるのも人から聞いた話ではあるし、ちゃんとその場にいて、ノリに乗って、そのノリが映像のなかに収まって、その映像を見る人が同じノリに乗ったっていう証言があるんだけれども、ただし、それは他人から聞いた話にすぎなくて、作家としてはそれを信じるしかないです。

 

 

文化のリミックス

ーー質問者2 自分が透明になるという話があって、みんなで一緒にトランス状態になって、それが映像で伝わるんですね。そこで気になるのが、動画がどういうふうに見られるかということです。インターネットで公開するというのがプロジェクトの重要なところだと思いますが、見る人はYouTubeで見たりとか、Facebookでシェアされて見たりする。本当にそれが最善の環境なのかということが疑問なんですね。作家として、作っている映像がどういうふうに見られてほしいですか。

 

ムーン 基本的に見方は押し付けません。見る人が自分で決めます。インターネットは最高のプラットフォームだと思っています。なぜかというと、それが一番民主主義的で、誰もが見られるからです。そして、どういうふうに見るかをそれぞれが自由に決められるわけです。みんなが異なった好奇心でもって見ているわけですね。作家としての1つのスタンスとしては、自分の作品のプロモーションはしないです。作って、公開して、見られる状態にしているけれど、プロモーションはせずに放っておくだけです。そうすると、いろんな人がそれを見て、感動したりして、自主的にシェアしたりします。シェアする人がどうしてシェアするか、他の人に見て欲しいかということをそれぞれ決めてもらいたいと思っています。もう1つ、これらの作品に関しては大きな画面で見た方がいいとは思っていないんです。小さな画面でも大きな画面でも、どちらが良いということはないです。それはそれぞれに決めてもらう。なぜかというと、それはどうしようもないからです。もう1つ気にならないことは、動画の再生回数です。最近は全然見ないようにしています。これは実は大きな問題です。最近は再生プラットフォームの関係で再生回数がすごく重要になってきています。それによってみんな数値化に夢中になってしまうんです。でも、本当に大事なことは、種を蒔くことです。私はクリエイターではないです。映像のなかにあるものを作っているわけではない。伝えているわけです。自分は、情報が伝わっていくなかの1つの仕事をしていて、自分が伝えたものは、別の人が別の形で伝えて、それがまた伝わっていくわけです。そして、伝わっていくことによって自然に「リミックス」されていくわけです、現代の言葉を使えば。ただ、そのリミックスというのは、実は最初からあったわけです。自然や文化は常にリミックスしていくわけです。今ここでやっていることもある種のリミックスであるわけです。感想としては、日本人は特にリミックスが上手だということで、これからもリミックスしていきましょう。