これからの創造のためのプラットフォーム

2014.05.17
セルフビルドという思想

清水陽介(どっぽ村エコワークス代表)

黒川大輔(木工房「結」主宰)

みなさんこんにちは。今日はセルフビルドということで話そうと思いますが、どうしてそうなったのかというバックボーンのところからお話ししようと思います。私はプロの大工で、普段は地下たびと鉛筆という作業服か、背広しかないものですから、今日はこっちのほうが失礼がないだろうと思い、背広を着てきました。

 

生きていくのに何が必要か

生きていくのに何が必要か?ということを自分なりに考えてきました。大工になったのは比較的遅くて、25歳から35歳まで親方に付いて建築を学んだんです。学んだと言っても現場です。実務だけです。特に設計を習ったということではありません。大工という仕事を選んだんですけど、仕事そのものを習った10年間の前に、実は自転車で世界一周したことがありまして、そこで感じたことを建築という生き方の中でどう生かそうかということを考えながら過ごしてきました。

そもそも人間がどうやって生きているのか?そんな哲学的にではなくて、現実的にどうやって食ってるのか?ぼくはその旅の間中ずっと考えたんです。21歳から3年半ほど、インドからずっとヨーロッパに向いて走って、アフリカのガーナという国までサハラ砂漠を越えて行きました。ぼくはもうすぐ60歳になるんですが、38年前に何も情報がない中で、でも人間は世界中どこでも暮らしているから多分大丈夫だろう、と。その「多分大丈夫だろう」という安心感は、日本にだってその当時はあまり情報がなくて行ってみないと分からない場所はたくさんありましたから、そういう経験からくるものだろうと思います。海外に行くときにぼくが持って行った情報は、各国の日本大使館の住所を手書きで写したものだけです。そこに辿り着きさえすれば、困ったときも何とかなるだろう。あとは中央郵便局の住所ですね。日本からの荷物や手紙を受け取るためです。そういうところを辿りながら旅をしていった。

5年間と決めて旅をしようと思っていましたが、出発して1ヶ月でネパールで盲腸になってしまいました。それで2ヶ月はネパールに滞在することになったのですが、それでもなんとかなるだろうという変な安心感がありました。そういう旅を続ける中でだんだん吹っ切れるという感覚が育っていきました。そしてなにかを探そうとして旅に出たんだけど結果3年半で「何もない」ということが自分のなかではっきりつかめました。そして帰ってきて、無性にものをつくりたくなった。そこで自分で全部出来る仕事は何だろうと考えて、それが大工だったんです。住宅であれば、当時は大工さんが設計していたんですが、設計して最後まで仕上げることが出来ます。そういうスタイルに魅せられました。

今から思うと旅の中で、ぼくは多分、たくさんの家を見てきたんだろうと思います。暑いところに行けば、暑いところの家の工夫があるし、寒いところに行けば、寒いところの工夫がある。建築的な視線で見ていた訳ではないんですが、21歳の感性で何かわからないまま、毛穴からしみ込むような形で住宅を見ていたんだろうと思います。帰ってきてから親方について仕事を始めたんですが、寛大な親方で5年目から棟梁でやらしてもらったんです。でも、はたと気がつくと、家を建てることは出来た、でもアジアやアフリカで自分が感じたことはそれだけではない。農的な暮らしを自分でやってみたい、ということがむくむくときたんです。そこでせっかく棟梁で仕事も順調だったのに辞めてしまって、滋賀県の一番北にある小さな集落に家族とともに移動して、農的な暮らしをやろうと思ったんです。非常に甘い考えですね、今から思うと恐ろしいくらい。立場も収入源も捨ててしまった。農的な暮らしと言っても食えませんからね、なんせ「農的」ですから。

 

前を向いて行くしかないという感覚

親が農家をやっているとかでもなく、全く何も知らない状態からはじめたから、収入を得るために他に仕事をしなければならないということで、スキー場に勤めたりして3、4年うろうろとやっていました。そして5年ぐらいかけてやっと農業の入り口に辿り着いて、あと5年かけて約1ヘクタール分、お米づくりを始めました。計算で行くと5ヘクタールやれば成り立つんですが、ぼくの頭の中では農薬も肥料もやらないというこだわりがあったんです。で、そのこだわりのために失敗しました。やっている人はわかると思うんですが一丁の田んぼを無農薬ということだけでも大変です。だから今は、二反だけ田んぼをやっているんです。

そういう経験の中で、大事なものはなんなのかつかみ始めました。食うために米が要ります。寝るために家が要ります。着るものはまあ誰かのお古をもらってもいいと。そういう生活を40歳くらいまで続けたんですね。しかし、ちゃんと食えないとダメだということで建築に戻ってきました。今度は親方のところに戻った訳ではなかったんです。自営だったのですがとにかく前を向いてやるしかない、と。前を向いて行くしかないという感覚は、旅で嫌という程わかってます。自転車ですからペダルを止めれば止まる、漕げば前に進みます。目の前の仕事をほったらかして何か考えてもしょうがないから、前を向いて動くしかない。

 

自分の手で何でもやれる

今は住宅を年間に5、6棟建てれるようになりましたし、従業員は8人います。こういうところに来て大工らしからぬ話をしているときも仕事は回っています。ここに辿り着くまでに10年かかったのですが、7年前から「どっぽ村プロジェクト」というのを始めました。(スライド)随分前の資料なんで「循環共生社会」なんて書いてありますが、最近こういう堅い話はしません。腹が減ったら飯がいるし、雨が降ったら屋根がいる、というようなところで落ち着いているんです。

(スライド)実はこれはぼくの手です。10年間大工もやった、農業もやった結構分厚い手なんですね。若い人たちに言いたいのは、「自分の手で何でもやれるんですよ」ということ。その一番のもとになるのは「手」です。自分の手なんです。「お手は宝や」というのは村のおばあちゃんが教えてくれた言葉です。みんなの手が集まれば出来るんだと。情報とか知識とかも要るんですが、本当に安心できるのは自分の手の中にそれを持ってるかどうか、それがぼくにとっての安心材料なんです。大工もするし、米も作るし、綿もつくるといろんなことをやってきましたが、そういうものを提案して学校のようなものを作ろうと、やっとそれが琵琶湖の北端の場所で7年前にスタートしました。

「どっぽ村」の名前の由来は、「国木田独歩」から来ています。国と木と田んぼ、そして独歩、それぞれが自立して暮らせる人たちがいっぱいいるのが「国」なのではないか。どっぽ村の定住者も20名くらい、村全体の1割くらいにまでなっています。人口が増えているんです。今ほとんどの村が過疎化していく中で、少しだけ仕事の仕方を変えるだけで、つまり農業と建築をつなげるだけで食えるようになるんです。

 

暮らしの多様性

暮らしの多様性をどんな風に表現するのか?買ったり、選んだりということを重視する場合には多様性はそんなにない。それに対し「つくる」ということをたくさん増やしていけば、多様性も大きくなるんです。今の木組みの建築は木を刻むということをしません。プレカットと言って図面を工場に送れば、40坪くらいの家でも、わずか2日くらいで部材が手元に届きます、そういう時代になってしまいました。でもそれは、自分の手の中にはないんですね。経済としては成り立つんですが、自分で木を刻んだり、家を建てる能力がないまま、仕事が進んでしまう。ぼくはそれを良しとはしない。自分で木を刻んだほうが面白いんです。ぼくはひとり親方なので、工務店には属していません。自分で設計をして、と言っても、親方から習った手法をぼくなりに改良してお客さんに説明して、どうですか?とやっています。今だと瑕疵保証とかいろんな問題があって、住宅を一個人に任すということは難しいのですが、ぼくは未だにそのスタイルで通しています。営業は全くしてないんですが、どういうわけか勇気のあるお客さんがみえて年間5、6棟は建てています。こうしてやっとセルフビルドに辿り着くんですが、一般的に家を建てるときの選択として、ほとんどの場合はローンを組んで建てます。メーカー住宅で安心な家を建てる。でもその安心な家のために一生働かされる。これは「主体的」ではないと思います。そしてセルフビルドで建てると自分で決めたのであれば、それをやればいいと思うんですが、中には途中で、自分で決めたにも関わらずポイっと捨ててしまう人がいます。「自分で決めたんだけど出来ない」ということは多分、何かに押されてやっていたに過ぎないのではないか。でも進んでしまった以上はそれはやるしかない。当たり前のことです。

 

社会に変化が起きている

一年半の間、どっぽ村に来ていた27歳の男性は、米国資本のある証券会社に勤めていて年収8千万円でした。その仕事を辞めてどっぽ村に来て、なぜ職人の仕事を習わなければならないのか?その頃から時代の変化を感じています。大工のおっちゃんであるぼくが今日ここでIAMASに来て喋るということも、なにか社会に変化が起きていると思うんです。喋ることは本業ではないけれど、やってきたことは話すことができます。自分にとって確かなものというのは積み上げていって初めて自分のものになる。情報とか架空のもの、想像することもある意味積み上げていけるんですが、それはほとんどは流れます。自分の中でこれだ、といえる確かなものをもてるかどうか、そういうものが不安を消す大きな要素ではないかと思います。セルフビルドはこの手を使ってできる最大の仕事だと、若い頃にそう思ってやってきて、間違いないなと思っています。地震が来ようが台風が来ようが家が壊れたらまた建てればいいんです。

「これからの創造のためのプラットフォーム」というお題で言えば、未来に向かって確かなものを掴みづらい中で、われわれ職人の仕事というのは中間的で多様なものだと思います。幸福感とかは、働かされる時間が増えるとその質は下がっていくんじゃないでしょうか?自発的な部分をどうやって増やしていけるのか?わたしは経営者でありながら労働者であるという中間的なところにいます。社会人でありながら学ばなければならないという学生の部分ももっています。そういう中間的な部分があったほうがいいんじゃないか?このグレーゾーンに幸せ感のような質的な部分があるのかなと思います。自分の職の幅を広げる、買う人でもあるけど作る人でもありたい、というのが今のぼくの心情です。最後になりましたが、これは誰の句かわかりません、

「春に花 夏に涼風 秋に月 冬に雪あらば足らぬものなし」

日本は本当に豊かな国です。さっきの砂漠の写真とは明らかに違う風景が目の前にあります。でもそういうことにあまり感動を覚えないのはなぜか?もっと目を開いて自分の素直な気持ちで感じようとする感性が今後の未来の「プラットフォーム」になるんではないかなと思います。今日はありがとうございました。

 

 

ご紹介いただいた黒川です。定時制高校の教員をやりながら垂井の北のほうでカフェと木工房をやっています。カフェは妻が事業者でやっていて、木工房は趣味のような場です。セルフビルドに至る経緯が何だったかというと、ぼくも横にいる清水さんと同じで変わっていて、今47歳なんですけど、30歳ぐらいのときに普通の工務店で普通の家を建てたんです。

なんでも住む箱があればいいという発想でした。せっかく家を建てたのでいいテーブルが欲しいなとテーブルを見に行ったら、無垢の木のテーブルで30万したので、これは自分で作れるんじゃないかと思ったんです。それで工務店にいい木がないかと分けてもらって、加工したら今でも使えるテーブルが出来たんです。それで木工に目覚めました。

 

「出来るんじゃないか」という根拠のない自信

それを趣味でやっていくならいいんですけど、やっぱりちょっと変わっているところがあって、「これ、仕事に出来んかな」ということを考えました。最初は知り合いの農機具小屋を借りて、そこを作業所にしていました。それが昂じてクラフトイベントに出店して、そこで清水さんとたまたま出会って、「今の小屋の工房を広げたい」と相談したところ、「自分で建ててみたらどう?」と言われたんです。そこで「建ててみよう」と思うのか「無理だな」と思うのかが、セルフビルドに至る大きな分かれ目だったのかなと思います。その「出来るんじゃないかな」と思った要因は昔からあって、ぼくは根拠のない自信というのが常にあるんです。それは何かというと、実は、20歳から30歳までアイアンマン・レースに出ていました。そのときもスポンサーをつけてプロになろうと思っていました。水泳4キロ、自転車180キロにフルマラソンという、10時間から11時間ぐらいのレースなんです。スポンサーがつけば年収300万から400万でなんとか生活できるわけです。アイアンマン・レースというのは精神的に強くないと無理ですし、必ず完走できるとは限らないので、それも根拠のない自信がないとダメなんです。

 

セルフビルドは孤独との闘い

(スライド)まずは工房から建てました。基礎のコンクリートを流す型枠も自分でつくって、鉄筋の配筋の仕方などは清水さんのスタッフに一日来ていただいてやり方を教えていただきました。コンクリートを流す前の状態までで大体二週間ぐらいかかりました。コンクリートを流す日は決めているので雨の日も雪の日も作業をしました。(スライド)これが完成した状態です。コンクリートは量が上がってくると、圧力が強くなるんですね。一カ所、型枠が外れかけて危ない状態も経験しました。(スライド)建前当日、土台を据えてその上に柱が立った状態です。だんだん工房が組み上がって行く様子です。セルフビルドなのになんでこんなに人がいるの?という話なんですが、骨組みを刻むのはひとりで出来るんですが、建前、建て起こしはみなさんに来ていただいてガッとやるんです。また骨組みが出来た後は地道な根気のいる作業が続きます。平行して、手前のカフェの基礎工事も同時に進行させていきました。(スライド)これは骨組みが終わった後、「竹小舞」と言うんですけど、今滅多にやらない土壁ってあるんですが、それを塗る前の下地です。この竹を地道に編んでいくんです。嫁さんとふたりで一ヶ月くらいかかったかな。最初は要領がわからなかったんで、手間取ったんですが、最後はだんだん慣れてきました。これが実は美しくて、夜にこの状態で明かりをつけるとその光の反射がなんとも言えないアート作品のようです。こういうのはセルフビルドじゃないと味わえない体験です。セルフビルドによる工程の中で、自分の感性に響いてくるものがあるんですよね。(スライド)これが竹小舞の上に塗る土です。土は業者さんから仕入れたんですが、職人さんに聞くと本来なら地元の田んぼの土と藁を一年くらい寝かせて腐らせて、それを塗るのが一番いいらしいです。塗る作業は、知り合いの人に来てもらってワークショップ形式でやりました。粗壁というのは適当にやってもいいんですね。誰が塗ってもそんな差がないんです。大体ここまではわーっと出来るんですが、ここから先がセルフビルドは孤独との闘いになります。唯一作業するのはぼくだけです。土壁を塗るまでのペースで言えば、これは一年で完成までいけるんじゃないかなと思ったんですが、実は、一人になってからはそれはそれは大変でした。これは土壁の上から焼き杉を張ったところなんですが、作業の途中で足場から落ちてしまって、五、六針縫う怪我をしてしまったんです。途中でやっぱりこれは無理かな、と折れそうになったんですけど、アイアンマン・レースの経験からも一旦やると決めた以上やれるという自信があったので、一ヶ月くらい作業できない期間はあったんですが、なんとかやれました。

 

主体的に生きていく自信

セルフビルドをやり終えて、いろんなことを得たり、感じたりすることがありました。セルフビルドをやる前にはなかった別の考え方が芽生えたんですよね。具体的に何かと言うと、セルフビルドと言いながら多くの人に関わってもらうことになりました。そういう人たちとつながるんですよね。また、こういう建物ができることによって、セルフビルドとかに興味を持つ人が自然に集まって来ました。その人たちと対話をする中で、いろんな生き方とか考え方もあるということを常に感じるようになりました。

「主体的に生きていく自信」というのが何なのかって言いますと、正直、ぼくはいま教員ですけど仕方なくやってる部分と、でも辞めないって部分があるんですよ。これは言葉でなかなか言い表しにくいんですけど、なんて言ったらいいのか、今の学校教育というのが崩壊しかけているように思うんです。その理由は何かと言うと、ぼくたち教員も、生徒も、保護者もそうです、自分の利益ばかりが最優先なんですよ。なんか学校って社会のために生徒を育てるとか正論を言うんですけど、やっぱりグローバル社会って言うのが最終的には金儲けで、そういうものが学校教育の中に入り込んでくるのは仕方ないことかも知れませんが、結局いい大学に行くというのも、将来安定した仕事につきたいとか、そういうことが見えてくるんですよね。教員も、自分の立場を守るためにやっている。ぼくもそのひとりかも知れませんが、そういう中で働いているという意識があるんです。「主体的に生きていく」というのはやはり好きなことをやって生きていたいということなんですよね。自分で工房とカフェを建てたことによって、教員をいつ辞めても生きていく自信がつきました。ただ、娘が大学に通ってるので、家族や子供には迷惑をかけられないという自覚はあります。やっぱり家っていうのは、それが建てられればどこでも生きていけるって感じですよね。だって動物を見るとわかると思うんですけど、自分の住処は自分でつくりますよ。根源的な話になりますけど、ぼくらも生き物なので、そういうことが自分で出来たということは、数年後には自分のしたいことを続けながら主体的に生きていけるということになります。教員を辞めれば、経済的な質は落ちると思うんですけど、人間として生きていくという本質的な質は上がるんじゃないかと思っています。

 

 

生きていく力とは

セルフビルドをやって、生活するための知恵、生きていく知恵が身についたってこともあります。文科省の言う「生きていく力を身につける」という正論がありますが、これをやっても生活が出来る子が生まれるか?っていう話なんです。セルフビルドをやって、昔の人たちは本当によく考えたな、と思うことがいっぱいあります。地元には、あそこのあの場所は風が強いから絶対ものを建てるなとか、その場所場所で生きていく知恵を現場の人がもっていて、それが自分の身になっていく。本質的に生きていく知恵を学ぶことで、主体的に生きていく自信につながりました。もちろん、カフェと工房を清水さんのおかげで借金をせず安く建てられたということも重要で、もし借金を背負うってしまったらその先の自由度がなくなると思うんですよね。この先やりたいことが止まってしまう。セルフビルドで安くつくることによってその先につながるものができました。

 

シェアグラウンド構想

さて、もしこの構想にご協力いただける方がいれば是非お願いしたいんですけど、都会なんかでシェアハウスとかありますよね?使わなくなった建物を若い人たちがシェアしながら住む。例えばそれを田舎で考えた場合、ハウスではなくて、大きな土地がいっぱいあるんです。ぼくがセルフビルドした地域にある集落も十年後にはなくなっていくかも知れません。どっかのニュースで日本では2040年までに896の自治体がなくなると言われていました。それを悲観的にみるか、発展的にみるかでしょうが、これから土地がどんどん余ってくるわけで、そういう広大な土地を同じような意識をもった人たちでシェアしたらどうかな、と思うんです。これは適当に描いた図ですが、大きな土地があって、シェアする工房があって、農園があって、共有スペースがあると。そしてそこにはスモールハウスが点々とある「シェアグラウンド」というアイディアです。その中で生活しながら、生活自体がレジャーになるような、もちろん生きていくのは楽しいことばかりではないんですが、生きやすい環境が出来るんじゃないか。

今の工房も実はシェアしていますが、共有の工房を地域にひとつ持って、教える人がいて、その周りに小さな家を建てて、農園をつくって、生活する基盤はできると思います。これから日本では単身の人が増えてくると思うんですが、そういう人たちが別々のアパートを借りて住むよりは、大きなシェアグラウンドの中で生活した方が、生活することが楽になると思うし、休日はレジャーのようになったりするかも知れません。もちろんこの中で何か事業を起こすことも可能だと思います。みんなの技術が上がってくれば、スモールハウスを売り出すことも出来るだろうし、木工製品を売り出すこともできる。本業と副業のバランスを取りながら生活が楽にできるようになるんじゃないか。清水さんの話にもつながると思うんですけど、横のつながりでこういう環境を整えると面白いんじゃないか。つくる場所と、ちょっと教えてもらえる人と段取りさえ出来れば、あとは覚悟とやる気だけです。こういうのが全国に点々と広がっていって、つながっていけば面白いと思うんです。すべて人に頼ってお金でやり取りすることだけではなくて、それぞれのもった技術を生かしながら生活していくことが出来ていくんじゃないかと思います。

こういう考え方を基盤に、先日、IAMASの学生さんにも参加いただいて三坪ハウスのワークショップをやりました。三坪、十平米以下だと建築基準法の縛りがなくて好き勝手に建てられる。このような小さな家を、シェアグランドの中に建てていけば面白い生活ができる。自分のなかではこういうものが広がっていくんじゃないかなと思いますし、また可能性もあると思います。これからは材木の価格が上がり、大きな家を建てるのは難しくなるかも知れませんし、エネルギーの問題、環境の問題を考えると今のような住宅建築がどうなのかな、と素人感覚ですが、思います。仕事が終わって帰ってきて、家で行動する範囲ってそう広くはないし、うちも娘が一人出て行ったので、子供部屋も物置になります。物置に固定資産税を払っていることになります。そうやって考えると、必要に応じて小さな家を作っていくのも選択肢だと思います。ぼくも家を建てるときに借金をしましたが、借金を背負うことは仕事をやめられない、ということにもなるんですよね。セルフビルドをやることで借金を背負わない、それが自分の新しい生き方を模索することにもつながる。だからセルフビルドをもっと広めたいんだけど、自分の仕事にするというよりは、そういう価値観を持った人がもっと増えれば暮らしやすい社会になるんじゃないかと思っています。

セルフビルドをやるようになって、職人さんにはお金を払うんだけど、自分の出来ない事をやっていただく、という感覚になりました。これはすべての事に共通します。車の修理でもそうです。金払うからやっとけではなくて、自分が出来ないからお金を払ってやってもらってるという。これは、表現がいいかどうかわからないけど、前より誠実になったんじゃないかと思います。これまで以上に人に感謝をするという精神が身についたと思います。セルフビルドという孤独な作業の中で、いろいろ物事を考える時間がありましたし、生きていくってことがどういうことなのか考えるようになりました。清水さんとの出会いは一生忘れられない体験になったと思うし、これを将来仕事にしたいと思ってるんですけど、生き甲斐をもって生きていけるきっかけになったと思っています。またみなさんももし何かあれば、カフェとか工房に来てみてください。とりとめのない話になってしまいましたが、今日はありがとうございました。